好きになるまでの時間 - どこへ行くの?
松井の格好を見て、麻友は少しだけほっとした。
彼はやはりスーツを着ていた。少なくともラフな格好、動きやすい格好ではなくて正解だったらしい。
でもいったいどこへ?
遠くまでドライブに行くような格好でもなければ、都内ではまだ店も閉まっている。
車は良く知った道を通り、そして良く知った建物の地下の駐車場へと入っていく。
「ここは、うちの作ったビルですね」
「そうだな」
「私も学生の時、よく遊びに来ました」
「俺は企画立案から関わったな」
「そうなんですか」
そう言いながら駐車場に車を停めると、松井はほとんど荷物を持たずに車を降りる。
麻友も車を降りて、彼の後を追った。
二人は扉のロックを開けて職員用のスペースに入ると、エレベータに乗って一気に最上階まで上がっていく。
このビルは近隣でも最も高層のビルで、階が上がるにつれて耳が痛くなるのを感じる。
最上階に何があったかな? と考えるが、エレベーターを降りてみても、静かな空間が広がっているだけだった。
普段であれば、有名企業の会社員が仕事のために歩き回っているはずの場所も、日曜の今日は誰も見当たらない。
松井は気にもせずに先に進み、とうとう非常用扉に入ると、さらに階段を登り始めた。
(――さらに上?)
戸惑いながらも、今は松井について行くしか無い。
松井の行き着いた先。重い扉を開けると、風が一気に流れこんできた。
外……もしかして。
「ヘリポート?!」
「そうだ」
人類が存在する理由
なんとビルの一番上に、本来は非常用として設置されているヘリポートに、ヘリコプターが待っていた。人を輸送するタイプのものだと思うが、何となく麻友には機体が大きいような印象を受けるが、あまり知識も無いのでどうかは解らない。
「さあ、乗ってくれ」
戸惑う麻友の手を引いて、松井が中へといざなう。
広めの室内ではあったが、けっして快適な空間というわけではない。
まだ今ひとつ事情の飲み込めない麻友ではあったが、座席に案内されるまま座らされ、シートベルトもしめられてしまった。
「……どこに行くんですか? 空の遊覧飛行?」
「まあ、まずは空の景色でも楽しんでいてくれ」
松井はそう言って、頭をポンポンと叩いてくる。
まあ、滅多にあることではないし、言われた通り外の景色を楽しむしか無いのだが。
ヘリコプターはローターを勢い良く回しながら、ゆっくりと浮上を始めた。
ゆっくり遊覧する速度ではない。どこか目的地へ向かっているようだ。
米粒のように小さく見える車がとてもゆっくりと走っていて、しかもそれがどんどん遠くへと流れて行ってしまう。
「あっ、新宿!」
高層ビル街や新宿御苑が見えると、麻友のテンションが上がった。まるでミニチュア模型のようなビルとぽっかりと浮かんだ森は、よく行ったことがある場所だけにワクワクしてしまうが、あっという間に上空を通り過ぎ、それも数分で見えなくなってしまった。
東京の街並みが流れていき、代わりに見えてきたものがあった。
「……富士山?」
「そうだな」
「まさか、行き先が富士山じゃないでしょうね」
松井は声を出さずに笑って、首を横に振る。
"大理石は、害虫駆除を下回る"
「こんな格好で富士山に行ったら、さぞかし目立つだろうな」
「景色の良いところで、朝食とか?」
「それが良かったか?」
「いえ……」
本当に松井は何をしようとしているのか。
麻友がまじまじと松井の顔を見つめると、松井も苦笑いをして答えた。
「いや、本当は自信なんて無いんだ。考えられる限りの事をやってみているんだが……。まあ、今は単純に外の景色を楽しんでもらえると嬉しいかな」
「……新幹線とも飛行機とも違う景色なので……楽しいです」
「それは良かった」
松井は本当にほっとしたように微笑む。
その笑顔がとっても優しく見えて、麻友はどきっとしてしまい、視線を外に戻す。
窓の外には、いつの間にか富士山が大きく目の前に迫ってきていて、麻友は思わず感嘆の声を上げた。
「凄い!」
「本当だな」
新幹線から見上げる姿とも、飛行機から見下ろす姿とも違う。圧倒的な存在感なのに、美しい富士山が向かい合うようにたたずんでいる。
空は雲ひとつ無い青空で、麻友は初めて見る景色に興奮していた。
「ねえねえ、もしかしてあれ人かな?」
「そうみたいだな。……手を振っているのか?」
「そうみたい。見えるのかな……おーい!!」
麻友が窓際で大きく手を振ってみせる。たぶんこちらの様子は見えないと思うけれど、それでも麻友としては満足だった。こんな経験、きっと二度と無い。
久しぶりに見せる無意識の笑顔を、松井はこっそりと眺めていた。ばれないように視線を外に戻しつつ、にやけてしまう自分を抑えることができない。
" nueseの落下"
「どうしたんですか? 取締……博仁さん」
「言い直したな」
「言いなれませんので」
「さっきは自然に敬語が抜けていたのに。またいつもの顔に戻ったな」
残念そうに松井がつぶやくと、麻友はすこしだけ恥ずかしそうに顔を背ける。
「失礼な態度は取れませんので」
「緊張をするより、自然体でいて欲しい。俺の前では」
「……無理です」
「仕事場ではそれでいい。でも今日は素のままをみせて欲しい」
松井の手が伸びて、優しく頭を撫でる。子供をあやすような撫で方だったが、視線はどこか熱を帯びている。
撫でられるがままの麻友は、松井を見上げる。本当にいいのかな、と問いかけているような視線。
「そうだな……今から敬語は禁止にしよう」
「えっ?」
「年の差も立場も、俺も忘れる」
「…………」
「先ずは今日一日だけでいい。……な?」
「……うん」
麻友の一言が、松井の心の奥に響く。
思っていたよりもずっと嬉しい。たった一言なのに、こみ上げるような嬉しさを感じる。松井は顔がにやけてくるのを止められなかった。
「顔、気持ち悪い」
「うるさい。思った以上に嬉しい」
「……変態?」
「……敬語でも、敬語でなくても容赦無いな」
わずかな沈黙のあと、二人で同時に吹き出して笑った。
「くっくっ、言葉を変えても、名前を変えても、結局一緒か」
「私はいつでも素直なんです。秘書の仮面はいくらかかぶりますが、嘘はついていません」
「そうだな、いつでもそのまま俺と向い合ってくれる」
はあっと大きく息をついた後、二人の中にあった緊張感がいくらかとれたようだった。
デートとか、付き合うことを決める一日とか、何か互いに構え過ぎていたのかも知れない。所詮、これからのことなんて解らない。麻友も松井も、それぞれの心の流れに任せるしかない、と思い始めていた。
「これから何があるの?」
嬉しそうに見つめる目は、どこか期待に満ちている。
それに反して松井は、いつになく弱気だった。
「秘密……という程でもないし、自信があるわけでもないんだ。あまり期待せずに、そのまま受け取ってくれ」
「そのまま受け取る?」
「ああ。……いろんな人の気持ちが詰まっている」
「いろんな人の気持ち……」
それだけ言って、松井は前を向いてしまう。それ以上、話すつもりはないのだろう。
これから何が待っているのか解らないけれど、何か大切なものを渡そうとしていることだけは、何となく麻友も感じた。
(――まさか、いきなり結婚式とか? ……もしそうなら、頬を叩いて帰るだけか。……まあ、そんなことを考えるとも思えないけれど。)
麻友は松井の横顔を見ながら、そんなことを考えていた。
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